俺があいつを見返す日。

俺があいつを見返す日。

わたしがある人を見返すための意思表明として立ち上げたブログです。日々のこと、夫婦のこと、子育て、商品レビューなど、なんでも。

「そういうこともあるよねー」の境地に達したい。

卒業式のシーズンインザサン心潤してくれ。


去年の今頃、長女(13)も小学校を卒業した。その卒業式での話。


なぜ式の席順がステージ→卒業生→在校生→保護者になっているのか。

悪いけど在校生は保護者の後ろに下がってくんねえかな。

こちとら40歳を過ぎてっから。衰え始めたマイアイズじゃ我が娘の姿を視認することが困難を極め、いっそのことクローズマイアイズするような事態に陥っちまうからよ。


そうじゃない。書きたいのはそんなことじゃなかった。

改めて、その去年の卒業式にて。


奥さんとわたしのいくつか前に、3歳くらいの男の子を連れた保護者が座っていた。

会話の節々から、その男の子がアンパンマンを好きらしいことは分かったので、ここでは仮にその子を『アンパン』と表記することにしようとしたけど、アンパンだとシャレになんないヤベーやつになっちゃうから『アンちゃん』とす。


式の最中、そのアンちゃんが騒ぐ。すげえ騒ぐ。

おもちゃが欲しいと喚き、お菓子が食べたいと叫び、外に行きたいと走り回る。

まるで今年度のこの小学校の卒業式を台無しにするために、赤ん坊の時分に惑星ベジータから送り込まれてきたのかと思わざるを得ないくらいに、よう騒ぐ。


まぁ分かる。

そりゃ正直、軽くうるせえなとは思ったけど。

でも年端もいかぬ小さなアンちゃんだもの。卒業式だからといって黙って座っていられるわけがない。

あるいは何か事情があるのかも知れない。

だからそこはいいとして。


でもアンちゃんのご両親には結構イライラしていた。

だって大声を出して喚き叫び走り回るアンちゃんを、全っ然なんとかしようとしねえんだもん。

「ほらアンちゃん」くらいの軽い声掛けをするだけで、それ以上は止めもせず諌めもせず宥めもせず。

あとはひたすらスマホばっかりいじくり倒しやがって。


何だいその「ほらアンちゃん」ってのは。絵本のタイトルかよ。それとも騒ぐ子どもを静かにさせるための魔法の言葉か何かか?

だとしたらソレ、一切何の効果も発揮してないぜ。


何で動かねえのよ。

あなた方は地蔵か? そこいらの道辻に置かれているありがたき道祖神かよ。

ほらアンちゃんつまんねえってよ。そりゃそうだよアンちゃんは卒業式なんて知ったこっちゃねえんだからさ。

そのスマホをいじる手を少しだけ止めてさ。おもちゃかなんかを渡してやんなよ。菓子も食わせてやんなって。すりゃアンちゃんも満足して多少は静かになるでしょうよ。

他の保護者の方々はどうだか知んないけど、わたしは我が子の6年間を思い返して感動に浸りたいのに、全然集中できないでしょうが。


式の最中、ずっとそう思ってイライラしていた。わたしの感覚では考えられない親としての振る舞いだったから。

だから式が終わってから奥さんに聞いた。あの地蔵夫婦、ちょっと無いよねって。


奥「別に何とも思わなかったよ」


……。

いや違うでしょ。そうじゃないよね。

わたしだってアンちゃんはいいんだよ。でも、あの地蔵夫婦に対して少しの憤りも覚えないってのは、さすがにムリがあるよね。


奥「自分の子が小さい時に同じような経験をしてきてるし。周りの人たちも『そういうことあるよねー』くらいじゃない?」


おめえも地蔵だったか。そこいらの道辻に置かれているありがたき道祖神かよ。ずいぶんと慈悲深えな。


つーかウッソーンわたしだけ? 心狭き人間はわたしオンリーロンリー?

わたしだって娘二人で同じような経験をしてきているけど?

そしてCHAGE and ASKAの『オンリーロンリー』はいい曲だよね。


いやーやっぱり違うよ。

恒例の鈴木雅之さんにお越しいただいてもいいレベルで違う、そうじゃない。

もう心が狭くってもいいわ。だって違うと思うんだもの。


確かに「そういう事あるよねー」はあるけどもさ。

それは式の最中に騒いだり走ったりする年端のいかぬアンちゃんに適用されるのであって。

わたし的にはその両親自体には適用外だわ。逆に「それは無いわー」ってなる。

騒ぐ子どもを放っておいて、自分らはスマホいじってロクに子どもを見てないんだぜ?

ないよ。ない。もう一度言う。それは絶対に、ない。

 

と、憤る半面。

いいよねえ。「そういうこともあるよねー」って、そういう優しい世界。

子どもが騒いだり泣き出したりした時に、周囲の目に冷や汗かいてビクビクしなくてもいい世界。いい。

わたしが言うのも何だけれども。

いや、わたしのような至らぬ人間だからこそ、そう思うんだけれども。


どうすれば出来るのか。そんな世は。

一つは、わたしのような人間が減ればいいのだろうな。

わたしは他人のミスとか、自分は出来ているのに他人が出来ていない事なんかに、酷く心が狭い時があるから。

わたしはなんで人を許せないのか。

出先で娘たちがグズったりすれば、冷や汗かいて宥めたりしてきたからなぁ。わたしも。

自分がそうしてきたから、そうしない親を見ると憤りを覚えるのか。


じゃぁ例えば。

自分の子どもが騒いだりした時に、周囲が暖かく寛容であったとしたら。そういう世であったなら。

そういう世で子育てをした人たちは、今度は自分も他の人に対して寛容でいられるようになる気がするんだけど。

それがどんどん繰り返されて、そういう空気が熟成されて広く浸透していけば、何だかものすごく優しい世界が誕生するんじゃないの?

良い気がする。何だか無性に吟じたくなってしまうほどに、イケそうな気がする。


これはまさに映画『ペイフォワード』の世界じゃないかな。

でもどういう映画だったっけな。アレ。

 

 

でも。
子どもを放置してにスマホをいじっているような親には、残念ながら周囲は暖かく寛容ではいてくれないね。多分。

泣いたり騒いだりする子どもを一生懸命に何とかしようとする健気な親の姿を見て、やっと周囲は同情して寛容になってくれる。

周囲に寛容さを求めるなら、冷や汗かいて必死な姿を見せないとダメ。

その姿を見せたら周囲は同情して寛容になってくれる。

でも寛容になってもらうためには冷や汗かいて……。

 

なんか訳わかんなくなってきた。これ以上はわたしの頭ではムリだわ。

あと、さっきから『周囲』って言葉で薄めて逃げてるけど、これは卑怯なので。

『周囲』はすべて『わたし』に置き換えよう。

 

一つ分かっているのは、ワタシは心が狭いってこと。一応は自認している。

一応は自認できているのならば、これ先にわたしも「そういうこともあるよねー」の境地に到達できるかもしれないという希望を胸に、もう一度『ペイフォワード』を観なおしてみようか。