小雨そぼ降る夜の街。
長い長い橋の上を主人公の車が走っている。
橋を渡りきったふもとの信号が赤になったので、主人公は車を一時停止させた。
どこからか湧いて出た無数のゾンビが、あっという間に主人公の車を取り囲み、一斉に窓ガラスを叩きはじめた。
主人公は運転席の窓ガラスを開けてしまう。
すると一匹のゾンビが主人公に顔をグッと近づけ「オマエノセイダ……」と唸るようにつぶやく。
さて問題。これは何のホラー映画に出てくるシーンでしょうか?
映画をよく観る人でも正解するのはかなり難しいはず。
もし正解できたなら、それはまさにミラコーとしか言いようがない。
なぜならこれは映画のワンシーンなどではなく、わたしが20代後半から30代前半くらいまで、何度も繰り返し見た夢だからだ。
従って主人公とはこのわたしに他ならない。
前回も夢の話だったけど、その時に登場したのは単なるおっさんだった。
でもこっちの夢はゾンビだから。恐怖レベルが全然違う。
おっさんとゾンビとではラズベリーとグリズリーくらいに段違いだ。
言うまでもなく怖いのはグリズリーであってラズベリーではない。
でもラズベリーもよく見てみると妙にブツブツしていて存外に不気味な事この上ないから、みんなもよく見てみ。
ゾンビが眼前に迫ってくる経験なんてないんだから。
この夢を見た時は必ず恐怖でうなされながら起きていた。
連日見ることもあれば数カ月おきだったりで、いつまたその夢を見るのかと不安になって、眠りにつくのが怖くなった時期も。
悪夢にうなされた男が「はぅあっ」とか叫んでベッドからバッと上半身を起こしたりするとか。
横で寝ていた奥さんも起きてきて「ダーリン大丈夫?」などと肩に手を置いて優しく声を掛けたりするとか。
ドラマや映画でそんなシーンを観ることがあるが、あんなのはウソだから。
電話に出た人が「え? 一郎が事故?」と状況説明のためにつぶやくくらいにウソだから。
悪夢にうなされている人間がそんなにカッコいいハズがないでしょ。
和室の畳に敷いた薄っぺらい布団の上で、糞山の王ことベルゼブブが地の底から発したような「ゔぁあ゛あ゛っ!!」という野太い唸り声をあげ、横で寝ている連れ合いから体を加減なく揺さぶられて「ねえちょっと。やめてよキモチ悪い」と言われる。それが現実。
「はぅあっ」なんてわたしが射精するとき以外には決して出さない声だわ。
そもそもどうしてこんな夢を見始めたのか。
思い当たるキッカケが一つだけあって。
会社の同じ部署にM男という同僚がいた。
妙に馬の合うヤツで、付かず離れずの人間関係を原則とするわたしにしては珍しく、プライベートでも頻繁に飲みに行ったり出掛けたりする仲だった。
そんな関係を続ける内に、自然とM男の彼女だったF美も一緒になって遊ぶようになり、恋人同士のM男とF美、そしてわたしという、まるでトレンディドラマを地で行くような関係が構築されていた。
はじめにお断りしておくけど、いつの間にかM男とわたしがF美を巡って恋敵になるとか、わたしがDEENよろしくこのままF美だけを奪い去ってそれが今の奥さんだとか、そんなキュンキュンして急性キュン不全を起こしてしまう展開とはならない。
ただ、ちょっとしたトラブルはあった。
ある時わたしを居酒屋に呼び出したM男から「F美と別れた」と告げられた。
突然の告白に二の句か継げないでいるわたしにM男が続けた。「お前のせいだ」と。
ハイ現場。ここが事件のあった居酒屋です。お待たせしましたこちら事件のあった居酒屋になりまぁす。
わたしが夢でゾンビから言われた「オマエノセイダ……」は、時期的にもこのM男の言葉が元と考えて間違いないだろう。
M男いわく、お前(わたし)のF美に対する異常なまでの優しさが原因で、F美から別れを告げられたのだと。
当時の記憶が曖昧なところはあるけど、M男の主張は以下のようなものだった。
・お前(わたし)はF美に対して初めから異常に優しかった。
・買い物をしたF美の荷物を持ってあげたり。
・F美が酔って乗れなくなった自転車を押してあげたり。
・F美に横を歩く時は意図的に自分が車道側を歩いたり。
・酒を飲みながらF美の愚痴を聞いてやったり。
・思うにお前はF美の事が好きだったはず。
・F美もだんだんとお前を好きになっていったはず。
・その内F美はお前と俺を比べるようになった。
・そしてF美は俺の気配りのなさに気づいてしまい、俺に別れを告げた。
・お前さえいなければ、F美は俺の気配りのなさに気が付かなかった。
・だから俺とF美が別れたのはお前のせいだ。
異常なまでの優しさと言っておきながら、挙げた例がことごとくショボくない? なんだか本官とてつもなく気恥ずかしいんだけど。
でもM男には本当にこう言われたから。
それにしてもM男だ。中々にファンキーな思想の持ち主と言わざるを得ない。
だからわたしはM男に言い返した。
・つまりは自分の至らなさが原因でF美が愛想を尽かして三行半を叩きつけられただけだろう。
・わたしがいなかったとしても別れは時間の問題。単に未来を先取りしただけに過ぎない。
・だいたいそこまで分かっていたのなら、わたしの代わりにお前がF美に優しくすれば良かったではないか。
・そもそもF美に対してだけ特別に優しくした覚えはない。
・F美に恋心があるというのも事実無根。言い掛かりも甚だしい。
・お前がそう思うなら、もうそれでいい。
・お前とわたしの関係が絶たれたとしても、F美が望むならF美と連絡は取り合う。
・それより車道側を歩くとかその辺のくだりは勘弁して。その部分特に恥ずかしいから。
ここまでの事を言い合ったのだ。当然にM男とわたしの関係は絶たれた。
あれから20年近くが経ち、M男も別の女性と結婚した。
今ではM男と普通に接することも出来るようにはなったけど、あの一件以来、M男とプライベートで付き合うことは一切なくなった。
一方F美とは、しばらく連絡を取り合って会ったりしていたが、M男と別れてから1年くらいしてF美に恋人が出来た。
それからは自然と疎遠になり、今では連絡先も知らない。
自分で言うのも全く憚られないけど、意外にもわたしはそれなりに気配りができる性格だったりする。
だからF美にも他の人にするのと同じような気配りをしたに過ぎない。
それを優しさと言うなら、わたしは優しかったのだろう。
ではその優しいわたしが、なぜ責められなければならないのか。
しかも自分の至らなさを手の届かないくらい高い棚に置いたM男などに。
冗談ではない。
M男に「お前のせいだ」と言われてしばらくは、悲しさと怒りが尋常ではなかった。
でも今では、M男とF美が別れてしまったのは、やはりわたしのせいではなかったかと思っていたりする。
なぜなら、わたしが優しくすることはなかったかなと。
F美が重そうな荷物を持っていたのなら、わたしが代わりに持ってあげるのではなく、わたしがM男に「持ってあげたら?」と言えば良かった。
F美が愚痴を言っていたら、わたしがその聞き役に回るのではなく、M男に「聞いてあげたら?」と言えば良かった。
上から目線なのは仕方がない。わたしがM男より気配りが出来たのは事実なのだから。
ただその気配りを、F美にではなくM男に向けられなかったことが悔やまれてならない。
それが出来ていれば全ては丸く収まり、あるいはF美とM男は別れずに済んだかもしれない。
わたしはF美には優しかったのかも知れないが、M男に対しては優しくなかったのだな。
その後悔の念が、冒頭に書いた夢となって現れたのだと思っている。ゾンビはM男だったのだ。
そしてその夢を見なくなったということは、わたしはこの一件を完全に過去のものに出来たということだろう。
ただ後遺症はある。この一件以来、わたしは優しさをオモテに出すのが怖くなってしまった。
相手に気づかれないように優しくするクセがついてしまったものだから、わたしがこんなにも優しい人間であることが、一切周囲に伝わりゃしねえ。
まったくもってめんどくせぇ。
M男、オマエノセイダ。