朝からお腹の調子が優れない。
こんな書き方をすれば体裁が良く聞こえるかもしれないが「要はただの下痢したおっさんだろ」と言われてしまえばグウの音も出ない。
その意見は圧倒的に正しいが『下痢したおっさん』を直訳すれば『ゲイリー・オールドマン』となる。つまりは現時刻を以てわたしが晴れてハリウッドスターの仲間入りを果たした事を意味する。これはすごい。
そんなすごいわたしだが、あと5分で自宅トイレから出なければならない。出勤のためだ。ハリウッドスターでも出勤はする。プライベートジェット? いや、ジャパンレールウェイだ。うん、そう。JR。
トイレにこもってから20分は過ぎているが、いまだお腹が落ち着いたとは言い難い。
だが出勤時間は刻一刻と迫っている。わたしは一抹の不安を覚えながらも、その不安を振り払うかのように、勢いよくパンツとスボンを引き上げた。
いつもより2分ほど遅れて駅に着いたが、無事に電車に乗る事ができた。
ほっと胸を撫で下ろしたわたしは、リュックから読みかけの本を取り出した。芦沢央さんの小説『悪いものが、来ませんように』だ。
奥さんに薦められて読み始めたが、これが面白い。ページをめくる手が止められない本に出会ったのは久しぶりだった。これだから読書はやめられない。
しかし物語がようやく佳境に差し掛かったところで、下腹部に突然のビッグウェンズデーが襲来した。
腹が痛い。すごく痛い。何だこの異常な痛みは。襲来したのは本当にビッグウェンズデーなのか? 蒙古だろ。これもはや襲来したの蒙古だろ。肛門に蒙古。コウモンニモウコ。ダメだ微妙に回分にならない。
しからば『来週肛門に蒙古襲来』ではどうか。ライシュウコウモンニモウコシュウライ。非常に惜しい!!
何がしからばだ。回文なんてどうでもいい。わたしはお腹が痛いんだ。
なぜだ。痛いぞ。親父にもぶたれたことないのに。いやこの際親父は関係ない。この際というか一切関係ないんだ親父は。
猛烈な腹の痛さに、さっきまで軽快にページをめくっていた手は完全に止まり、今は油汗が止まらない。もはや一刻の猶予も許されない。
この電車が次の駅に到着するまで約2分。扉が開いた瞬間にダッシュしてトイレに駆け込めば、あるいは間に合うかもしれない。
しかしそれは個室が空いていればの話だ。駅のトイレは争奪戦。空いている可能性は低い。
そうなれば終わりだ。トイレまでのダッシュに全ての力を使い果たしたわたしに、もはや肛門の括約筋を締めるだけの余力は残されていないだろう。
だが、このまま何もせずに会社に辿り着けるか? 会社までは電車にバスに徒歩、諸々であと1時間はかかる。イケるか? イケるわけがない。リームー。次の駅までの2分すら凌げる気がしない。
「漏らそう……」
わたしは覚悟した。覚悟せざるを得なかった。苦渋の決断だった。もうダメだ。とても耐えきれそうにない。わたしは47歳にしてウンコを漏らさなければならないのか。
ウンコか。そういえばウンコとウンチって消化した物が肉が野菜かで呼び方が変わるって日本医師会で決められているらしいねーなんて走馬灯なのかウンコ灯なのかよく分からないモノが頭の中でクルクル回り出した頃に思い出した。
そうだ。わたしはストッパを持っていたではないか。
これだよこれ。わたしが求めていたのはウンコとウンチの違いなどというボンヤリした豆知識ではない。突発性の下痢にLIONのストッパ下痢止めEX。これなんだよ。
神仏を一切信じないこのわたしですら、この時は神に祈りを捧げたい気持ちでいっぱいだった。神様ありがとうラスカルに会わせてくれて。
ストッパを取り出してみると、大きめのラムネのような黄色の錠剤が入っていた。説明によると水無しで服用できるらしい。嬉しいじゃないか。ストッパ最高。
説明にはさらに『嚙みくだくか、口の中で溶かして服用してください』とあった。ちょっとストッパ。いやストップ。フザけるんじゃない。ストッパのくせにお前はこの状況が全く分かっていない。人としての尊厳を無くすか否かの瀬戸際だぞ? 嚙みくだくに決まっている。一択だ。なにを悠長に口の中で溶かす事を勧めているのか。さてはお前は下痢の手先か?
わたしはさっそく一錠取り出し、親のカタキほどの勢いで噛み砕いた。
すると1分も経たないうちに奇跡が起こった。お腹の痛みが消えた。信じられない。さっきまでの便意がウソのように消え去ったではないか。
……ウソなんじゃないか? ウソのように便意が消えたのではなく、便意が消えたのは本当にウソで、実はわたしは既にウンコを漏らしている……。その事実に気が付かないようにするために開発された新薬、それこそがストッパ下痢止めEXか。おのれLION、図ったな!!
そんな訳はない。わたしはストッパに救われた。
その後は便意に苛まれることもなく、無事に会社に辿り着いた。
とはいかなかった。さすがにそこまで順風満帆ではなかった。その後、バスの中で再び激しい便意に襲われたわたしは、バスを降りてから会社までの徒歩15分を、ひたすらデューク更家の内股歩法で歩き続けた。
会社に着いてすぐにトイレに駆け込んだ。パンツを下ろすのと肛門からケルヒャーみたいな大便が噴射されたのは、ほぼ同時だった。
危ないところだった。もしストッパを飲んでいなかったらと思うとゾッとする。
そこまで考えて、ふと疑問が頭をよぎった。結論としては間に合ったが、これは本当にストッパの効果によるものなのか?
今回のような経験は初めてではない。今までも激しい腹痛に襲われた事は幾度となくある。しかし一度として漏らしたことはない。小学5年生の林間学校で日光の戦場ヶ原でウンコを漏らしたのに何食わぬ顔をしてバスに乗り込み車内を異臭で充満させて周囲をざわつかせたあの時以来、わたしは一度としてウンコを漏らしたことはないのだ。
では今回、もしストッパを飲んでいなかったらわたしはウンコを漏らしていたのか? ストッパを飲んだからこそ、今回はギリギリ何とか間に合ったのか?
もし本当にストッパがそれほどまでの効果をもたらすのなら、わたしは今すぐタイムマシンで小学5年生のあの時に戻り、ウンコを漏らす寸前の自分にストッパを渡したい。
いや。起きてしまったことは今さら変えられない。しかしこれからの事は変えられる。今わたしが出来る事、それはタイムマシンに戻って過去を変える事ではなく、あの時同じバスに乗っていた人たち全員を訪ねて、あの異臭の原因をわたしの隣りにいた中本優子のせいだと吹聴して回ることだろう。それで過去には決別だ。
とにかくわたしが助かった事は事実だ。
これからはストッパに頼らなくても済むように、下痢そのものを避けなければならない。
そもそも今回の激しい下痢は何だったのか? 原因は分かっている。週末に義実家に行ったことだ。
日曜日の夕食後にケーキが出てきた。ショートケーキかモンブランかと言われたのでショートケーキを選んだ。
ケーキを食べ終わる寸前にたい焼きが出てきた。普通のあんことずんだがあるらしかったが、とっくに腹が膨れていたわたしには、どちらを食べてもさして変わりはない。ずんだを選んだ。
ようやくたい焼きを食べ終えたところで大量のエクレアがテーブルに並べられた。エクレアが一本糞に見えたのはこの時が初めてだ。
こんな食べ方をしていれば、ドラえもんのひみつ道具をもってしても下痢は避けられない。それなのに最後にスニッカーズが出てきた。
「好きだったわよね、スニッカーズ」
義母はわたしの好きなものを覚えていてくれる。好きだ。確かにスニッカーズは大好きだ。でもケーキにたい焼きエクレアと続いたあとのスニッカーズの存在に、一体どんな意味があるというのか。義母は知らない。スニッカーズのキャッチコピーを。『お腹が空いたらスニッカーズ』だぞ。お腹が空いていない時のスニッカーズなど、ただの粘ついた棒だ。全世界の歯医者さんの敵、それがスニッカーズだ。
義母に食べなさいと言われれば、それはもう食べないわけにはいかない。わたし達のためにわざわざ買ってきてくれたのだから。
義実家にさえいかなければ下痢にはならない。それは明白だが、何と今週末も義実家に行く。義父母が金曜日にコロナワクチンを打つからだ。接種後の体調など、万が一を考えて義父母の側にいてあげたいのだ。
色々美味しいものを食べさせてくれて、いつもありがとう義父母。